千葉県 矯正歯科 原田歯科クリニック院長紹介サロン 原田歯科クリニック

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神奈川県イメージ私は、神奈川県横浜市で生まれました。 生まれてすぐ新生児破傷風に罹り、生死をさまよったという話を子供の頃、よく両親から聞きました。 私は8月30日生まれなのですが、本当は出産予定日より約1ヶ月遅く生まれたそうです。 それで平均的な新生児より体が大きかったため、体の抵抗力が強かったのか 助かったそうです。

それから当時担当した小児科の先生が名医だったお蔭で生き延びることができたそうです。      
実はクリニック開業後しばらくして交通事故であわや! ということがあったのですが、助かりました。 こんな私なので、何かつらいことがあったときには、今まで死を乗り越えてきた貴重な経験をしているのだから、何でも乗り越えてみせると自分に言い聞かせてきました。
その後、横浜の鶴見に20年以上住みました。 鶴見という鶴見のは、横浜市にありますが、鶴見川という川を渡るとすぐ隣は川崎市で、いわゆる港ヨコハマのイメージとは違う町です。
鶴見の駅から歩いて3分という交通利便なところに住んでいたのですが、何せテレビ神奈川のアナウンサーまでもが、「川崎市鶴見区」と間違うくらいで、京浜工業地帯がある町です。
ただ私の住んでいたところは、大本山総持寺という大きなお寺が近くにあり、子供の頃よく父に遊びに連れていってもらい、そこでキャッチボールしたものです。
私は一人っ子なのですが、私が生まれたときに母もとても大変な思いをしたため、父が気遣って子供は1人でいいと言ったそうです。

中学は都内の有名校を受験したのですが、念願かなわず そのときまで学校の名前すら知らなかった桐蔭学園という学校に入ることになりました。
この学校は当時横浜市緑区という横浜の北部、東京都町田市に近いところにあり(夏目漱石の弟子の佐藤春夫という作家の『田園の憂鬱』という小説の舞台になった場所の近くにあるのですが、今でものどかな田園地帯です)、通学するのに電車とバスを乗り継いで1時間半近くかかり、当時の私は今と違って体も小さく、体力も決してあるほうではなかったので、通学がつらいこともありました。

そして中学1年のときにとんでもない経験をすることになりました。 夏の甲子園高校野球で我が桐蔭学園の高校が初出場で優勝してしまったのです! こちらは何しろ中学入学1ヶ月前までその存在すら知らなかった学校ですから、野球が強いなんてことはもちろん知りません。
従って甲子園に出場したのも何かのまぐれだろう(当時から神奈川県は強豪ぞろいで出場校も多く、今から思えばまぐれで出られるほど甘くはありません)ということで1回戦の愛知県代表 東邦高校戦だけは応援に行きました。
これが変な試合で、クリーンヒットやホームランが出てランナーがホームインしてきたのではなく、プレーが中断しているような状況で、桐蔭の奇本監督が腕をグルグル回して選手がホームインし、結局それが決勝点になって以後の試合はトントン拍子で勝ち進んでしまったのです。 2回戦以降は、学校が夏休みだったこともあり、私はどこかに鉄道写真を撮りに行っていたので、高校野球はテレビ観戦すらしていませんでした。
そうです。 私の小学校高学年から中学生のときの趣味は蒸気機関車の写真撮影だったのです。
お年玉を貯めて北海道から九州までユースホステルを泊まり歩いて(ときには無人駅に寝袋を持ち込んで野宿して:おっと有人駅の苫小牧駅や会津若松駅の待合室でも野宿しましたね)よく撮影旅行に行ったものです。
当時の日本は蒸気機関車が日本からちょうどなくなろうとする時期で、全国にカメラ小僧が三脚片手に大勢撮影しに来ていました。 当時は今ほど物騒ではなかったので、無人駅の待合室が夜中の列車が走っていない時間帯に鍵をかけられるということはなかったようです。 そういえば夜中におじさんが見回りに来たところもありましたが、こちらはどう見ても家出少年には見えなかったと思いますから、無人駅の待合室に泊まることは大目に見てもらえました。

でも高校2年くらいのときには、日本からほぼ商業用の蒸気機関車は消えていましたから、私の鉄道写真の趣味も自然消滅しました。 さて中学からそのまま桐蔭高校に進学した私でしたが、当時の桐蔭高校はスポーツだけでなく、勉学のほうでも全国レベルを目指してましたから、私も何となくその路線に乗ることになり、将来何になりたいかではなく、まずは有名大学に入ることが目標になりました(ただ当時から予習、復習の大切さをたたきこまれ、これは今でも診療の前日には必ずカルテに目を通し、診療後も全歯科医師、衛生士のカルテを点検するという風に活きています)。

今から考えるとペース配分を誤ったかなと思うのですが、高校2年の夏休みは毎日13時間くらい全く外出もせず勉強して(今だったらまず朝起きたら水を飲んで、室内でトレーニングしてからジョギング、シャワーを浴びたら呼吸法ですね)、たまの登校日に外に出ると別に睡眠不足だったわけではないのですが、フラフラして家に帰ってくると何だか体調悪くて という状況だったのですが、夏の勉強の成果が出たのかその秋か冬に全国一斉の試験のようなものがあったのですが、そのときは学内でもトップクラス、全国でも確か100位以内に入ることができました。 しかし、その後風邪をひいたあと、どうも鼻の調子が悪くなり、近医で手術を受けたのですが、全く改善されず、医者に対する不信感のようなものをしばらく持っていました。
それからは物事をマイナスの方へマイナスの方へと考えるようになり、結局は受験もうまくいかず浪人することになり、親に迷惑をかけました。 浪人したときに素直に当時学校の担任の先生から勧められた予備校に行けばいいものを、当時愛知県から東京に進出してきた関東では全く実績のない予備校に、その宣伝文句につられて入り、このときもかなり勉強したのですが、予備校での試験ではかなりいいところに行くのですが、口の悪い友人の「本番に弱い男」などという言葉を聞くと本気でそう思いこんでしまい、結局志望校に入ることができませんでした。

このときはさすがに自分というものに自信をなくしてしまい、2年目の浪人生活では予備校も単発的な講座を週に数回受講するにとどめ、あとは通信添削のコースを受講することにし、そして実は高3のときは工学部、1浪のときは医学部を志望したのですが、今度はもっと自分が何になりたいのかを本当に真剣に考えるようになり、歯学部に絞ることにしました。

そして何と社会勉強のため話し方教室に通ったりもしました。 これは今でも役に立っています。 それは話し方のテクニックを学んだだけでなく、明るいものの考え方の大切さを学んだのです。
そして松下幸之助さんのエピソードから素直さの大切さについても学びました。 実際体力をつけることの大切さを痛感した私は2浪のときにジョギングしていたのですが、そのとき何か石のようなものにつまずいて足を骨折してしまったのです。 でもこのときは、全く落ち込んだり、悪いほうへ物事を考えたりすることもなく、まあこんなこともあるさ 程度に考えていたと思います。

そして東京医科歯科大学に無事合格 大学入学を機会にそれまでのマイナス思考だった自分のイメージを変えることを決意し、名前が幹夫なので自ら自分のニックネームはミッキーと ことあるごとに名乗ることにしました。 医科歯科大学に入ってびっくりしたのですが、新入生の平均年齢が何と22歳だったのです。
これは高卒後何年か浪人してから入学してきた人だけでなく、他の大学や大学院を卒業、中退して移ってきた人や、人も羨む超一流企業を退職して入ってきた人など様々でした。
こうなると自分が2年浪人してきたことなど実にちっぽけなことで、コンプレックスも何もありませんでした。
そして新入生のオリエンテーションが八王子のセミナーハウスで行なわれたときに、自分はミッキー原田である!と自己紹介しました。 さて大学では当時流行っていたテニスをやることにしました。
当時はボルグとマッケンロー、ジミー・コナーズ、女子ではナブラチロワが全盛期で、テニスはちょっとしたブームでした。 当時の男子の医科歯科大学テニス部は全盛期で、医学部歯学部だけのリーグ戦では毎年のように優勝、一般の大学も加盟していた関東大学リーグでは7部まであったのですが(6部プラスその他大勢ということで、6部までは1部につき確か5つか6つの大学から構成されるのですが、7部は一体何校あるのかわかりません:つまり7部に落ちるとそこから這い上がってくるのは至難の業と言われていました)、医科歯科大学は5部に在籍し、4部との入れ替え戦に出るまで行ったのです。
そこで私は医学部歯学部全体の中ではレギュラー選手にはなれませんでしたが、結構体育会系のノリで練習に明け暮れていました。

さて、大学を卒業後ですが、研究者になるつもりはなく、最初から臨床家をめざしました。
大卒後、きちんと診療しているところで長く勤務医をやろうと考え、昔は医科歯科大学での診療は半年待ちなどという時代だったのですが、半年も待てない患者さんを紹介していた当時池袋にあった先輩の歯科医院に勤務することになりました。
そこは定期的に外部から講師を呼んで勉強会をやったり、歯科衛生士による健診も真面目にやっていた医院でとても勉強になりました。
そこでは当時インプラントもやっており、私も卒業した年からインプラントをやっていました。
私はそれほどお金があったわけではなかったこともあり、きちんとした治療を勤務医として長くやろうと考えていたのですが、たまたま出た開業セミナーで講師の先生が開業、しかもテナントでなく土地を買っての開業について熱く語るのを聞くと、何だか夢がふくらんでしまい、もうこうなると誰も自分を止めることができない状態になってしまい、大卒後約2年で開業することになりました。
物件探しに木更津に行ってそこにいい土地があったのですが、金融機関からの融資がおりず断念したことがありました。
そういえば、当時担保になるゴルフ会員権を持ってますか?などと聞かれたこともありました。
そういう時代だったのですね。

今 開業している土地を見に行ったときは最初からここを目当てで行ったのではありません。
本当は近くにあいている土地があるから と、当時勤務先に出入りしていた歯科材料屋さんと一緒にクルマで見にいったのですが、そこは奥まったところにあり、誰が見ても歯科医院に向いている土地ではありませんでした。
それでたまたま近くにあった不動産屋さんにいい物件はないかと聞いたところ、今開業している物件を教えてもらい、昭和62年に開業、今に至っています。